「後ほどの憑依」という作品
ここ数年、演劇やアートにまつわる通訳の仕事を色々とさせてもらうようになった。
海外アーティストの公演の通訳はもちろんのこと、かなり堅いカンファレンスの類から、長期にわたる親密なワークショップまで、およそ演劇に関わることなら何でも日英の通訳をしている。
「良い通訳」というものについて考えると、「インタープリターに特有の身体」というものがあるという事に思い当たる。それは、通訳者に要請される独特の人称の感覚と密接に結びついている。
通訳者は、「私はこう思う」という事を言わない。一方で、「彼はこう思っている」と言ってもいけない。わかりやすい通訳者は常に一人称で話す。それでいて、その「一人称で語られている言葉」が自分のものではないという事を、身体で常に語っていなければならない。つまり、通訳者は常に「(彼は)私はこう思う(と言っている)」と言っているのだ。
この、一人称の言葉を用いながら、身体的には常に二人称的な立ち位置を要請されるというのが、通訳者に特有の振る舞いだろうと思う。「翻訳」は、一人称の言葉を一人称に置き換える作業だ。翻訳されたものは私の言葉なので、それは好きに書いて良い。ただ、通訳された言葉はどこまで行っても、私のものではない。それでいて自身の発する言葉に対する責任は、当然通訳する相手のことも背負っているので、倍になる。
この負荷を意図的に発生させ、その負荷を処理する身体を劇として提示するというのが「後ほどの憑依」という作品の最初のアイデアだった。ただ、この作品を作った当時、僕はもう「翻訳」の仕事は始めていたが、「通訳」の仕事はしていなかった。なので、その二者の違いが考慮されないままの創作になったと思う。
種明かしをしてしまえば、「後ほどの憑依」というのはダジャレだ。Trans Later。トランスレイター。後ほどの、憑依。(翻訳者の綴りがtranslatorなのはわかっている)
初演のときは「翻訳」という言葉だけで、翻訳のことも通訳のことも考えていたのだ。それが今は、この2つのプロセスの違いが如実にわかるようになった。「劇場版 後ほどの憑依」は、その2つの身体が立ち現れる上演になるだろうと思う。
(写真は、2015年初演時より。©️横丁オンリーユーシアター)
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