演出家より
中央アフリカのとある部族の言語には、色が3つしかないそうである。我々の言うところの「緑」「青」「白」に相当する言葉しか持たない彼らは、実に20種類以上の"緑"を見分ける事ができる。しかしその一方で、トマトと煉瓦塀の色の違いを見分ける事はできないというのだ。彼らの言葉には「赤」と「茶色」の区別が無いからである。人間なんて皆、同じようなものである。彼らと私たちの網膜や脳のはたらきに、当然、大きな違いは見られない。草木と、空と、雲の微細な変化を正確に指し示す豊かな語彙のつづら折りが、文字通り、彼らの世界を形作っているのだ。
当然、私たちにこの世界を見る事は叶わない。私たちにとってこの世界は存在しないのと同じ事である。同様に、彼らにとっては私のように海辺に育った者には見慣れた、潮の濁りと錆にまみれた赤茶色の世界は、どこを探しても存在しないのだ。私たちが見分けているいくつもの赤を、彼らは知らない。
演劇は、電車で向かい合わせに座った他人同士のお喋りから始まるという古い例え話がある。これは「劇」というものの十分条件でしかない。お喋りが発生するならば、あるいはそれは演劇と言う事ができるだろう。だが、そのお喋りを通して錆だらけの港町に広大な草原が現れ、夕暮れの不穏な紅さではなく、日が上る直前の空の青さを見分ける意味について少年が思考するに至った時、初めて、劇の必要条件が満たされるのだ。
「劇とは何か」という問いの答えはしばしば凡庸だ。その問いにさらに"私にとって"とかそのような枕詞がついたら、もう、最悪である。「それでも劇であるためには」を改めて問い直さなければならない。そして傲慢に聞こえる事を恐れず言えば、この問いに答える事ができるのは、およそ世界で翻訳家だけである。